Thứ Hai, 29 tháng 6, 2009

江戸時代の時刻システム #1 鐘の数

寛永寺の鐘 向こうが川越の喜多院からの本堂

  • 鐘の数は、9を関数にして下一桁であらわしました。
    • 1番目の時刻= 0時→1番目X9=9   九つ
    • 2番目の時刻= 2時→2番目X9=18  八つ
    • 3番目の時刻= 4時→3番目X9=27  七つ
    • 4番目の時刻= 6時→4番目X9=36  六つ
    • 5番目の時刻= 8時→5番目X9=45  五つ
    • 6番目の時刻= 10時→6番目X9=54 四つ
  • 「明け六つ」とは午前6時のことです。
    「暮れ六つ」は、午後6時です。
  • 「お八つ」をとったのは、午後2時ごろだとわかります。
  • 「お江戸日本橋七つ立ち」とは、午前4時に日本橋から旅立つということです。
  • 江戸時代には、日の出と日の入りを基準とする「不定時法」という時刻制度が使われていました。
    夏と冬では、一刻の長さが違いましたが、生活には何の不便もありませんでした。
  • 鐘は気づかせのために最初3つ打ちます。「捨て鐘」です。
    それから最初は長~く、徐々に短く打っていくので、途中から聞いても何時 (なんどき)かわかりました。
  • 江戸では、上野の寛永寺が最初につき、その音を聞いてよそのお寺がついていきました。
    今でも寛永寺の鐘は、朝6時、正午、夕6時に時を告げています。
  • ・・・・・

  • 「お江戸日本橋七つ立ち、初上り、行列そろえてアレワイサのサ・・・」
    江戸の大商店は、京都や伊勢や近江の上方商人が多くて、従業員はそれぞれの地元から連れてきます。悪さができないように同じところの者をやといます。
    12歳ごろに勤めはじめ、白木屋では、入店後9年目に「初上り」といって50日ほどの休暇をくれます。
    上は行列になって、関西方面へ上って行く情景を歌ったものです。
    「中上り」は入店後16年目です。
    「三度上り」は22年目です。

川越・喜多院1月3日は、慈恵大師・良源の日

良源  * wp

良源(912- 985、73歳)  天台座主。天台宗中興の祖

川越の喜多院では、正月3日が初大師で混みあいます。
良源は、元日の3日に永眠しましたので、元三(がんざん)大師 ともよばれます。

良源は、天台座主 (ざす)もつとめた比叡山延暦寺中興の祖です。
比叡山の経済を立て直し、学問の向上をはかり、規律の維持につとめました。
良源は、都を守り、比叡山を守るために、自分の遺骸を比叡山の鬼門(=京都の東北)に捨てるよう、言い残しました。

良源が得度したころは、比叡山は南都(奈良仏教)の風下に立っていましたが、比叡山が上に立つべくつとめました。
良源は生涯で2度(937年と963年)比叡山を代表して南都と論争し、南都をまかしました。
これによって教団の位置を飛躍的に向上させました。


慈恵(じえ)大師の称号を朝廷から贈られました。

良源は、厄除 (やくよ)けの大師として信仰を集めています。
角大師(つのだいし)、豆大師、降魔(ごうま)大師といった異称をもっています。
角大師(つのだいし)の厄除けふだ
角大師(つのだいし)は、角を生やし、目はまん丸で、あばら骨が浮いています。
やせさらばえた恐ろしい形相で病魔悪霊を退散させます。
門札(かどふだ)を家の門戸(もんこ)に貼っておきます。
豆大師
豆大師は、33体の豆粒のような大師像です。
豆は「魔滅」を意味します。

降魔(ごうま)大師の面 
良源みずからが魔となり、魔を降(くだ)します。

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喜多院の本堂・慈恵堂

喜多院コラム
喜多院は天台宗に属し、本堂は、慈恵堂(じえどう)とよばれます。

喜多院の本尊は、阿弥陀如来です。
寺院の本尊は、宗派ではなく、寺院により異なります。


天海コラム

慈恵(じえ)大師 と慈眼大師 (じげんだいし、天海)をあわせて「両大師」とよびます。
天海は、 慈恵(じえ)大師をもっとも尊敬していました。



蓮華 (れんげ)って?

蓮華座にお座りのお釈迦様
http://shop.yumetenpo.jp/goodsimg/dentou.co.jp/goodsimg/B-1/main-s.jpg

ヨガの蓮華座
加工元:
http://inst.play-sports.jp/blog/dictionary/img/entry/renge.gif

レンゲ

http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/k-online/cabinet/wagon7/w09041318.jpg

  • 蓮の花は、泥の中から出て来て、美しい花を咲かせることから、仏教では煩悩に染まらない清浄な聖なるシンボルとなっており、また浄土を意味します。
  • 泥の池は、この世と同じく汚泥 (おでい)に満ちています。
    汚水に染まらず、真っ白な清らかに咲くのが蓮の花です。
  • 蓮の花のことは別名、「蓮華」といい、仏の座るところを蓮華座といいます。
  • 蓮の語源は、「蜂巣」に由来します。
    • ハチス→ハス
  • タイなどでは、あいさつの時、手をあおわせますが、あれは蓮の花の形を模しているのです。
    したがって、両手はピッタリとはあわせません。
  • 古代インドでは、蓮の花は女性の生殖をいみし、多産の象徴でもありました。
  • ヨガに蓮華座という座り方があります。
    両足先をももの上に乗せます。
  • 中華料理のスプーンは、蓮の華に似ているので、レンゲと名付けられました。

Thứ Năm, 25 tháng 6, 2009

桃太郎の話は鬼門から。なぜサル、トリ、イヌを。

サル、トリ、イヌは鬼門の反対に
(※)
ウシ、トラの方角は鬼門(鬼の出入り口)です。

鬼が牛の角、
虎の腰巻き
なのは、ウシ、トラの方角が、鬼門だからです。


『桃太郎』の話は、十二支に由来します。
桃太郎がサル、キジ、イヌを家来にしたのは、サル、キジ、イヌが鬼門の反対の方角に住んでいるからでした。

ところで、鬼は何も悪いことをしていなかったようです。

福沢諭吉は言っています。
「桃太郎が鬼ヶ島へ宝をとりに行って、それを自分のおじいさんとおばあさんにあげたのは、けしからんことだ。」

鬼とは「隠(おに)」のことで、姿がみえないという意味のようです。

(※)http://tony.cocolog-nifty.com/misc/images/oni.png

Thứ Hai, 22 tháng 6, 2009

東照宮の「宮」って?


川越の仙波東照宮 (せんばとうしょうぐう)

1617年に静岡の久能山(くのうざん)から家康の遺骸を日光に移すとき、天海は亡きがらを黄金のみこしで運ばせました。

1300人の武士を随行させ常に天海がみこしによりそいました。

行列は、江戸城には立ち寄らず、川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。

一行は約20日間もかけて日光へ到着しました。
神の誕生を天下に告知するための天海の周到な演出でした。
「徳川家康は東照大権現となって再び現世に戻り、神威で徳川政権を守る。」

これが、天海が構想した家康神格化のプログラムです。
これにより泰平の江戸期が実現しました。

葬儀の導師をつとめた天海はこのとき80を越えていました。
今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。

天海は東照宮を全国に建てることに熱心でした。
600社ともいわれる東照宮が生まれ、東照大権現の神威は全国に行き渡るようになりました。

このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および川越の仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
<*川越藩主に徳川幕府の重鎮が配されたのは、江戸の精神世界の建設者の天海が、川越の喜多院住職であったことも関係しています。老中は松平信綱など6名、大老は柳沢吉保、酒井忠勝の2名>

仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。

徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。
家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。

天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、260年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。
260年の泰平は世界史上希有なことです。
泰平の時代の礎を築いたのが家康、天海です。

家康は極楽に往生しようとは考えませんでした。
あの世に浄土をつくるのではなく、地上天国の実現を願いました。
神になり、死後もこの世にあって、戦乱のない平和な世の中をつくろうとしました。

東照宮(とうしょうぐう)は、もともとは東照社とよばれていました。

1645年天皇が東照社を、次の理由で、東照宮に格上げしました。

「1617年に東照社が日光に鎮座されて以来、国内、皇室、幕府も平穏安泰である。
これはひとえに東照社の神徳のおかげである。
それゆえ、東照社を東照宮と改め称したてまつる。」

この年より、毎年朝廷より東照宮と伊勢神宮にお使い (奉幣使、ほうへいし)が派遣されるようになりました。

「宮」は、伊勢神宮のように皇室の祖先神をまつる神社にもちいられます。
それ以外で宮号を称するのは、菅原道真の天満宮と東照宮だけです。
家康はこれで天皇と対等になりました。


Thứ Bảy, 20 tháng 6, 2009

あの世って、あるの?

この世だけ           この世とあの世
あの世はある、と信じた方がよろしいようです。
自分のためにも、ひとのためにもなります。

死後の世界を信じると、死の不安に打ち勝つこともでき、 人生が豊かになります。

死は終わりではなく、あすへの旅立ちとなります。


旅立ちですから、生きているうちに、この世でエネルギーを高め続けることが大事となります。

次の世界へ飛び込んでいくという積極的な気持が必要になります。

そうすれば、次の世界でも充実した生き方ができるはずです。


昔の人ほど、現世よりも他界を大事にしていました。

沖縄は、現在でもあの世が強い社会です。

というよりも、この世とあの世がつながっている感じです。

あの世へいっても、またこっちへ帰ってきたりします。
沖縄人の強さ、心の豊かさは、ここにあります。

イヌ、ネコなどの動物は、あの世の存在を知りません。

人間は、カミなしに人間らしくなれません。

カミを捨て、平等社会をつくろうとしたロシアの悲惨な末路をみればわかります。

心を忘れた「モノ、カネ、カイカク」の社会も、同様です。

彼岸(ひがん)とは、此岸 (しがん、=この世)に対します。

この世はあの世への入り口に過ぎません。

彼岸、あの世こそ、わたしたちのふるさとです。

ふるさとへ立派に帰るためには、今をしっかり、立派に生きることが求められます。


Thứ Tư, 17 tháng 6, 2009

豊国(とよくに)神社の深秘(じんぴ) #2



秀吉の天下のころ、紀州の根来には根来衆(ねごろしゅう)とよばれる僧兵が1万人いました。
根来衆は、家康としめしあわせ、秀吉を責めることを画策していました。

1595年、逆に秀吉は10万もの大軍を宗教都市である根来(ねごろ)に繰り出し、根来寺(ねごろじ)内の2000もの堂舎を焼き尽くしました。

「秀吉の根来攻め」といわれます。
根来寺

1601年、家康は紀州の根来寺(ねごろじ)内にあった智積院 (ちしゃくいん)を京都に再興させます。

智積院には、ほろぼされた根来衆の怨念がこもっています。
しかも新しい智積院は、秀吉が長男捨丸(すてまる)をとむらうために建てた寺の中に建てられました。
智積院


1602年、家康は東本願寺を建立します。
「神 秀吉の道」を断ち切るためです。 

「本願寺」は通称「西本願寺」とよばれています。
「東照宮」とは日光の東照宮の正式名称ですが、「日光東照宮」とよばれているようなものです。
「神宮」とは伊勢神宮の正式名称です。 

1615年、家康は朝廷にお願いして、豊国神社の神号を廃させました。

これで、神 秀吉はなくなりました。 

これで、「不死身」を願って京都の「伏見」に居城を建てた秀吉の夢は消え果てました。

豊国廟(びょう)、豊国神社創立に尽力したのは、梵舜(ぼんしゅん)です。
家康は、梵舜について神道を深く学びました。
秀吉を神にする深秘(じんぴ)を知るに至りました。
のちに、みずからを神にする秘儀も学びました。
梵舜



寺社には深秘(じんぴ)が必要なゆえんです。
    《*家康は豊国廟をこわして豊国大明神の神号は、廃しましたが、東照宮に神ではなく、人間 秀吉をまつりました。》