Thứ Bảy, 31 tháng 7, 2010

歴史知らずが招いた徳川幕府の崩壊

1853年、ペリーが来航します。
実は、明治維新はここから始まります。
明治維新には15年かかり、成し遂げられたのは1868年でした。

ぺりーの来航により、日本国中は攘夷(排外主義)の熱狂に包まれました。
なぜ、国中が「神州(= 日本)不滅」とか「外国人は穢れている」とか思い込んだかというと、日本の歴史を知らされていなかったからです。
ペリー

幕末の攘夷思想は、独善的、排他的でした。
幕府の公認イデオロギーの朱子学に基づいていたからです。

朱子学は南宋で生まれました。南宋は常に北の異民族・金に圧迫され、臣下の礼をとらされていました。
漢民族の誇りは著しく傷つけられました。
朱子学
南宋と金【地図】

このような国情のもとでうまれた朱子学は、民族主義、愛国心を鼓舞し、自民族や自国文化を世界一すぐれていると説きました。

外国との関係は、冷静な現実認識と客観的な判断が必要ですが、朱子学は現実を無視した空理空論に陥りがちでした。

今では常識の下のことを幕末に口にした人は皆無です。
「神君家康公を見ろ」
教えられてなかったからです。

・徳川家康は開国論者でした。ウイリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを貿易顧問にしました。メキシコに使節を送ったりしました。
・鎖国は、島原の乱に恐れを抱いた政府がとっさに取った策であり、たかだか230年の歴史しかありません。

しかし、当時の人々は鎖国は日本建国以来の国是だと思っていました。

薩摩や長州は、西洋との戦争で敗れ、現実に触れ、積極的に外交・貿易を進めて、世界に対抗できる国家をつくろう、そのためには、徳川幕府ではだめだ、と結論に至りました。

歴史に学ばず、近代政府に生まれ変わることができなかった徳川幕府は滅びました。
(【cf.】井沢元彦)

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