井沢元彦『 「常識」の日本史』
聖武(しょうむ)天皇のきさきは、光明(こうみょう)皇后です。
光明皇后は、藤原不比等(ふひと)の娘です。
皇族以外の出身で初めて皇后になりました。
光明(こうみょう)皇后の誕生に際しては、皇族は反発し、とくに皇族代表の長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇の孫)が強く公然と反対しました。
皇后は皇族出身でなければならないという不文律があり、
聖武天皇に万一のことがあった場合、
皇族出身でない光明(こうみょう)皇后が天皇になってしまうからです。
しかし、藤原不比等の4人の息子たち(光明皇后のきょうだい)がごり押しして、光明皇后を誕生させました。
このあと、藤原一族は、長屋王を国家反逆罪におとしいれ、729年長屋王とその一族を全滅させました。
長屋王の死後、国家や藤原一族に次々と不幸がおそいかかりました。
* 733年 大飢饉が発生
* 734年 大地震
* 735年 新羅との関係が悪化し、天然痘が流行し死者多数
* 736年 凶作
* 737年 凶作
* 737年 藤原不比等の4人の息子たちが次々と天然痘で死亡
さらに、聖武天皇と光明皇后との間には、男児が生まれず、皇統の危機を招きました。
人々は、これらの一連の厄災を、長屋王の怨霊(おんりょう)と受けとりました。
このころから、聖武天皇は、母は藤原氏、妻の光明皇后も藤原氏にもかかわらず、藤原氏の専横に反旗を翻すようになります。
長屋王のたたりを鎮めるために聖武天皇がはじめた大事業が大仏の建立でした。
仏教、仏像は、「四谷怪談」や小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」を見てもわかるように、怨霊封じ込めの手段でもありました。
しかし、聖武天皇夫妻の願いはかなわず、天武系の血統は絶えてしまうことになります。
聖武天皇
光明皇后
井沢元彦、天武は天智とその息子を殺害
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